多文化共生センター東京で勉強をした卒業生の声を紹介します。
2003年に日本に来てもう8年半経ちました。本当にあっという間でした。振り返ってみると本当にいろいろなことがありました。
中2の時に両親の仕事の都合で来日しました。日本という国は知っていましたが、どんなところかは全然分からなかったです。日本に行ったら、どうにかなるだろうと思って日本に来ました。
実際に日本に来て、本当にびっくりしました。中国と全然違うんだと感じました。
まず、食べ物に関しての習慣が違っていました。中国では一日の三食は基本的には温かいものを食べます。だから、日本では普通に食べられている冷たい素麺やつけ麺などを食べることができませんでした。今でも僕は冷たいものが苦手です。また交通機関がとても便利で使いやすいです。
最初は両親にいろいろな場所に遊びに連れていってもらい、本当に楽しかったです。ずっとこうしていれたらいいなと思いましたが、両親にも仕事があり、ずっと一緒にいる訳にはいきません。
自分はまだ中学2年生だったから、学校に通わないといけませんでした。とういうことで日本の中学に入ることになりました。
この頃はかなり苦労しました。日本語ができず、何もわかりませんでした。授業なんか全然わからないし、コミュニケーションが取れないから、もちろん日本人の友達もできず、遊べるところもありません。 本当に泣きそうになりました。もちろん泣いたこともあり消極的になってしまい、もう中国に帰ろうと思う時もありましたが、その時、親に「諦めてはいけない」と言われました。
その当時、御茶ノ水で多文化共生センター東京が主催する「外国人のための高校進学ガイダンス」が行われることを中学校の先生から教えてもらいました。
母親がこのガイダンスに参加して多文化共生センター東京というところがあることを知りました。 当時の多文化共生センター東京の事務所は、教会のとても狭い一室を間借りしていて、毎日勉強できるフリースクールもありませんでした。
授業は教会のホールを借りるか、狭い事務所の一室の中で10人くらいの中学生と一緒に勉強していました。 でも、そこで自分と同じような子どもがいっぱいいることを知りました。それからは1年くらい多文化共生センター東京で学習支援をしてもらって、日本の教育環境や日本での高校進学などに関する情報を得て、そして自分に合う高校、自分が入れる高校を選びました。教科だけではなく面接でのマナーや先生方への対応を練習して、無事都立荒川工業高等学校に合格しました。
高校進学を決めてからも、まだ日本語が不十分のところがあったので、毎週土曜日にはボランティアの方に高校の勉強を教えてもらっていました。
そして、時間が経つにつれ日本に慣れてきて、自分もボランティアの一人として自分と同じような経歴をもつ子どもたちのサポートを始めました。
最初は日本に来たばかりの子どもたちに日本語を教えていました。また、最近は通訳として「外国人のための高校進路ガイダンス」にも参加し、僕が経験してきたことをもとに自分なりに子ども達の支援をしてきました。
今は学生アシスタントとして多文化共生センター東京に関わっています。今年の4月からは大学4年生になり、就職活動をしなければならない時期です。これからは就活に力を入れていきたいと思っていますが、今後もボランティアとして多文化共生センター東京に関わっていきたいと思っています。 また自分のような学生がいっぱいいることを日本社会に伝えていきたいと思っています。僕はみんなのお手本ではないですが、言葉の壁を乗り越え、自分自身出身国の文化を持ちつつ、日本という国の文化と社会と共に生きていきたいと考えています。
<執筆日:2012年2月23日>
僕は中学校3年生のとき、日本に来ました。日本に来る前、日本の生活や言葉のことがとても心配でした。 日本の中学校に入りましたが、最初は先生や同級生とどうやってコミュニケーションをとっていいかわかりませんでした。
たぶんか(Tabunka)フリースクールの夏期講習に参加して、日本語を勉強し、夏の終わりぐらいには、まわりのみんなとコミュニケーションがとれるようになってきました。
秋以降も、夜クラスで引き続き、数学、英語、日本語の勉強や高校入試の面接練習などをして、東京都立飛鳥高等学校の在京外国人枠に合格することができました。
たぶんか(Tabunka)フリースクールがなかったら、合格していなかったと思います。
今は、僕は高校生活を楽しくすごしています。友達がたくさんできて、軽音楽部でバンド活動もしています。古文の勉強などわからないことがあると、今でも多文化共生センター東京で勉強をみてもらっています。
僕は将来大学に進学して、日本で中学校の英語の教師になりたいと考えています。僕の英語の能力を活かして、日本の子どもたちの英語力を向上させて、いろんな国の人達と英語でコミュニケーションできるような子どもを増やしたいと思います。
<執筆日:2012年2月18日>
私が日本に来たのは、今から10年も前、2001年の時でした。
中国では既に中学校を卒業し、高校にも入学していました。 日本語が全く出来ないため、来日してからはすぐ高校に入れず、1年間中学校に通いながら、日本語の勉強をしていました。
2001年の秋のことですが、通っていた公立学校の日本語学級にて多文化共生センター東京主催の「日本語を母語としない親子のための高校進学ガイダンス」の案内を見かけ、日本語学級の外国人の友人を誘い、説明会に参加しました。
説明会にて多文化文化共生センター東京を知り、そこでボランティアの方に誘われて土曜日の学習支援教室(子どもプロジェクト)に参加してみました。
当時の多文化共生センター東京では土曜日の午後のみクラスがありました。 まだ来日して10ヶ月程度の時期で、日本で知人も友人もあまりいなく、日本語の勉強のみでなく、友達も増やせたらいいなという気持ちで多文化に通うことになりました。 通っていた土曜日の子どもプロジェクトには中学校を卒業したらもう行けなくなりましたが、高校入学後も断続的に授業に参加していました。
そこでもちろん、日本語の勉強ができましたが、私にとって一番記憶に残るのはやはり多くの友人ができたことです。 友人の中には自分と同様の外国人もいれば、ボランティアをしている日本人もいます。 みなさんから高校・大学のこと、社会のこと、日本の習慣・文化など、沢山の知識を教えていただきました。
大学に入学して、授業・アルバイト・海外留学・就職活動などで忙しかったですが、在学中には多文化が毎年開いている「日本語を母語としない親子のための高校進学ガイダンス」に通訳ボランティアとして数回参加していました。 大学を卒業してからは関西にて在勤在住になり、今は多文化へほとんど行けなくなってしまいました。
今後、日本にはより多くの外国の方々が留学・就労・移住等のために入国し、社会がますますグローバル化していくと考えられます。
このような社会変化に対応し、またその中で外国人でも日本でより良い暮らしができるよう、みなさんに多人種・多民族社会を受け入れてもらい、日本の法律、福祉、就労などのあらゆる法制面において配慮していただける社会になればと願っています。
<執筆日:2012年3月4日>
僕は中学校二年生14歳の時に日本へ来ました。当時はまだひらがなもカタカナもわかりませんでした。そのまま都立中学に入り、日本の学生た ちと一緒に生活することになりました。その頃は、朝から放課後まで、ただ教室に座っているだけで、何もしゃべれない、何を聞いてもわかりませ んでした。正直に言って、本当に辛かったです。
その時、僕はたぶんか(Tabunka)フリースクールに出会いました。そこに、僕と同じ境遇にある人たちや僕たちを理解し助けてくれる先生・ボランティアの人た ちが沢山いました。昼は中学校、夜はたぶんか(Tabunka)、体はきつかったですが、精神的に大きく成長できたと思います。たぶんか(Tabunka)は当時の僕の、元気の源とな りました。
あの時、僕が思ったのは、広い世界で、言葉が違っても、文化が違っても、人の笑顔は変わらないのです。こうして、僕はこの気持ちを皆に伝えた い、また、皆の気持ちも知りたいと思いました。言葉を一生懸命に勉強しました。
たぶんか(Tabunka)フリースクールは日本語を教えてくれることはもちろん、そして、僕たちを強くしてくれる場所でもありました。
現在、僕は元気な高校3年生です。大学受験に向けて頑張っています。将来は多文化を持つ、社会に役立つ、グローバルな人間になれたらいいなぁ と思っています。
最後に、改めて多文化の先生方々やスタッフの皆さん、そして、ボランティアの皆さんに感謝をしたいのです。本当にお世話になりました、ありがとうございました。
<執筆日:2012年4月27日>